1980年から20年間。世界中のコーヒー生産量は毎年約500万トン前後で、横這い状態です。ところが、茶の生産量 は毎年増え続けています。80年には185万t。90年は252万t。近年は約300万tと増え続けています。この生産量 はt(トン)重量表記ですから、コーヒー豆よりも重量の軽い茶葉の生産量が多量 に生産されていることになり、世界中で一番多く、茶が飲まれていることになります。


  中国茶は世界最古の歴史を持ち、お茶の世界でも有数の大量消費国です。現在では、 生産量?消費量ともに、インドが勝っていますが、2000種とも言われる茶の種類と 歴史は、中国こそが茶の大道であることは間違いありません。 日本語の「茶」、インドの「チャイ」、欧米の「ティー」や「テー」など、その全てが中国茶の発音から由来しています。



  中国茶と言えば、烏龍茶とジャスミン茶だと思っていませんか? 中国では生産量?消費量ともに緑茶がNO.1です。緑茶は、中国と日本がが2大生産国ですが、他のアジア地域でも少量 が生産されています。緑茶生産量では、中国が全世界の70%以上を生産しています。 日本の総人口とほぼ同じ人々が生活する上海市では、お茶と言えば緑茶です。首都 の北京でも、ジャスミンの花片を入れた緑茶が一般的な大衆茶です。広い中国では、 大衆茶も各地により特色があります。華南の広州では、紅茶が多く飲まれ、香港で はプーアール茶が人気です。




紅茶の世界でも、19世紀に欧米列強国が、インドやセイロンに大規模農園を作るま では、中国は世界一の生産国でした。紅茶の発祥地は烏龍茶と同じ福建省です。 紅茶の専門店で聞く、「ボヒー」(ブイ武夷)や「ペコー」(パイゴ)白毫銀針などの名前の由来も産地や茶葉の形状が関係しています。中国紅茶は福建省から安徽省に 伝えられ、後に世界3大銘茶(インドのダージリン?セイロンのウバ)と共に有名 な「キーマン?ティー」として知られるようになります。この「キーマン?ティー」 は英国トワイニング社の『プリンス?オブ?ウェールズ』の基本茶葉としても知ら れています。現在、全中国製茶品評会で数多い金賞受賞の広東省の英徳紅茶(イン フォン)が、茶葉として世界一の品質とも言われていますが、やはり機械で量 産さ れたものより手作業で作られた『工夫紅茶』(丁寧に作られた茶の意味)にはかない ません。



  英国の紅茶は有名ですが、茶は、欧米ではまだ300年余りの歴史しかありません。17世紀初頭にオランダ人により、絹や陶磁器と共に持ち帰られた、中国茶が始まりです。それが18世紀〜19世紀にかけて一般 にまで普及してゆきました。

  (1)茶の起源
  中国茶の起源(茶の起源)は何時なのか?正確なところはわかりません。しかし、 唐時代(618〜907年)の楊貴妃(755年没)とほぼ同時代に生きた、陸羽 (803年没)の世界最古の茶教本として知られる「茶経」によると、古代の火と 大地の神「神農」が、今から4000年以上前に茶を薬草として教えたと記述されています。また、「神農」の神話とは別 に、西周(紀元前1100年頃〜770年頃)(日本は縄文時代)時代には、すでに飲茶がされていたようです。西暦220年〜265年の三国時代には、酒宴の変わりに茶宴や茶菓子をもって、客をもてなして いた記述があります。

  茶が中国全土に浸透してゆくと同時に、陸続きの東南アジアへ、そして貿易の活発 な琉球や日本にも波及したはずです。漢字や中国神話、陶器や漢方薬が伝えられ、 茶が伝えられないはずはなく、恐らく茶は漢方薬の一部として早く伝えられたと思 います。そのように考えると、茶は縄文時代後期〜飛鳥?奈良時代には日本に伝来 したと思われます。諸説には、「縄文時代の人は小船を操り中国や東南アジアを頻繁 に行き来していた」と言われています。日本の飲茶は縄文時代から始まっていたの かもしれません。

  (2)陸羽の時代
  陸羽が「茶経」を書いた唐時代には、皇帝献上茶「貢茶」や博物館に残る豪華な陶 磁器からも、茶は唐時代には完全に確立されていたことがわかります。また、唐や 隋時代から「遣唐使」「遣隋使」を定期的に派遣していた日本にも、この頃(奈良? 平安京時代)茶が伝来したと思われます。しかし、日本茶道では、12世紀に栄西 により伝来した事になっています。実際に中国の同時代の宋代(10〜13世紀)では、茶は唐時代には、蒸してから固形茶にして乾燥させたものを薬研で挽いたものでしたが、宋時代の末期には、蒸して乾燥させたものを直接薬研で挽く抹茶と同じ製法 です。現代の中華圏の中で消えてしまった『抹茶』が日本に残っているのも、当時 の茶を厳格な作法の日本茶道が守ったと言えるのではないでしょうか。

  隋・唐の時代(581年〜907年)の茶は、粗茶?散茶?末茶?餅茶の4種類。 陸羽の「茶経」による分類です。基本的には葉茶と固形茶です。葉茶は、この時代以前には、他の漢方食材などと一緒に飲茶していたようです。また、陸羽が執筆した、「茶経」は、茶の製造法や茶器、茶に利用する水の規定や茶の入れ方にいたるまで、総合的に規定し、茶教本として認知されています。その為、陸羽は《茶聖》といわれています。

  韓国では西暦640年頃から茶が始り、唐末期の新羅時代の9世紀頃にピークを迎えたようです。

  日本でも、聖徳太子や弘法大師(空海)などが茶を持ち帰ったといわれています。日本 でも韓国でも、当時の茶は固形茶が主流で、一部の特権階級のものでした。

  (3)五代十国・宋の時代(907年〜1279年)
  宋時代には、茶は専売制度の適用を受けて、宋の財源としても重要なものとなりす。茶商などの商業活動も活発になり、茶の製法や種類も増えました。特権階級層で一般 に飲まれていた、固形茶は「団茶」として、麝香などの香料を添加し、より高度な製法となりました。究極の献上茶として「白茶」もこの頃に生まれました。

  日本茶道の基礎となる「栄西」が中国より持ち帰った技法(乾燥茶を粉末にして点てる手法)が用いられ、その為の茶碗も発展しました。また、茶葉を直接入れる急須などの茶器にも発展が見られます。

  信長が宝にした黒釉陶器の「天目茶碗」。利休が愛し、秀吉が嫌った「黒茶碗」など は、中国の宋時代(安土桃山時代は中国の明時代)の黒釉陶器です。それらは抹茶 を点てるときに、磁器よりも水色が美しいという当時の流行です。「栄西」伝承は、 禅寺に由縁のある「利休」が、当時の茶の歴史を研究した結果の「茶道始め始期」を確定する必要から決めた事なのかもしれません。



  (1) 元の時代(1279年〜1368年)
  シルクロードの覇者「蒙古」の時代だけに、ヨーロッパや西アジアからのコバルトを使った青花磁など、中近東の異国情緒のあるデザインも加わり百花爛漫となる。


  (2) 明の時代(1368年〜1644年)
  明の太祖「朱元璋」が皇帝献上茶に固形茶を使用する事を禁じ、《固形茶は製造する にも飲茶するにも大変な為、その作業を簡略化しそれらに従事するもの達への便宜を図った政策》茶の製法の変革をしました。それは今までの茶葉を蒸してから固める製法から、茶葉を釜炒りして散茶にする製法に改めました。これにより茶の種類は格段に増えて(葉茶の為)、現在の中国茶6大分類の基礎が完成します。

  この頃になると、茶の生産地の中心は華南の福建省から華中の浙江?安徽?江蘇省などに移ります。龍井茶や黄山茶などの銘茶もこの頃に誕生します。また、緑茶や青茶を飲む為に適当な陶器の急須が流行して、宣興の紫砂急須が誕生しました。

  日本でも、皇族や武家の茶道(抹茶)から、(農民から将軍になった豊臣秀吉の様に) 一般庶民にまで、飲茶の風習(煎茶?番茶)が商人達により広まります。

  高麗時代の韓国では、茶は相変わらず特権階級のもので、その為に茶の発展もなく、 相変わらず固形茶を愛用していたようです。その後、李朝代になると排仏崇儒の政策から茶道としての茶は廃れてゆきます。茶は水代わりとなり、今日まで続く、麦?果 物茶や漢方茶などの偽茶類が主流となります。

  (3) 清の時代(1644年〜1912年)
  中国各地で、茶館や茶楼が庶民の社交場として、栄えるようになると、茶の国内需 要は大きくなり、中国各地で茶の生産が始まります。そうして生産過剰になってい くと、茶の輸出も始り、ついには中国茶が茶の世界市場を独占してゆきます。当然 の様に豪華絢爛な茶器も作られます。茶自体も改良が加えられ、武夷岩茶(鉄観音) が皇帝献上茶となります。青茶の香りを極める為に、工夫茶の飲法も完成されます。 こうして中国では、無発酵茶、微発酵茶、半発酵茶から全発酵の紅茶まで多種多量 に生産されてゆきました。

  韓国では、唐時代より伝来した茶は、一般庶民のものではなく、高級官僚や富裕層の為の嗜好品でありました。李朝末期になって、ようやく固形茶から散茶(釜炒り茶)になり、茶の製法にも変化が現れます。韓国では、高級茶の釜炒り茶の?雀舌茶?「竹露茶」「春雪茶」はこうして生まれました。韓国の一般 庶民は麦茶などの偽茶類や漢方茶が今でも主流です。韓国では、商人による茶の復興が無く、茶は一般 大衆にまで浸透せず、その結果として、今でも朝鮮半島の大衆茶は、麦茶(ボリチャ)やトウモロコシ茶(オックスースーチャ)が主流です。しかし最近になって茶文化の再興が始まり、同様に韓国茶道も復活を遂げています。

  (4)イングリッシュ?ティー(英国紅茶誕生)
  1650年オックスフォードの町から始まった、コーヒーハウス?ブームは、英国中に広がりました。当時の英国では「パブ」が基本です。ところが、「パブ」は男性専用なので、女性でも入店出来る「コーヒーショップ」の方がトレンドです。そして、女性にとっては、嗜好品としてのコーヒーの魅力よりも、女性も入店出来る社交場が出来た事が流行の最大要因です。

  流行の波は、その後の1657年、ロンドン市内のコーヒーショップで茶の店頭販売も始まり、コーヒーショップからティーハウスの誕生となります。

  嗜好品としてのコーヒーは、当時の女性には、それほど美味しい 物ではなかったようです。コーヒーショップで儲けた事業家達は、他のヒット商品を見つけました。それは、当時の女王陛下のステータスシンボル(王侯貴族用の茶と大衆飲料のコーヒー)であり、それ以上に、美容にも健康にも良いと言われる、東洋の不思議な魅力を持つ飲物「茶」です。

  当時の開祖である、コーヒーショップ「ギャラウェイ」で売られていたコーヒーや茶もオランダからの輸入品です。当時の茶は、中国の青茶と日本の緑茶と言われています。

  717年のロンドン市内に紅茶専門店の「ゴールデン?ライオン」が誕生しました。
  その店のお茶は2000年になった今でも買えます。
  中国紅茶のキーマン茶が入れられている、「プリンス?オブ?ウェールズ」です。
  この黒缶(茶缶)には、色々記載されています、勿論「キームン」の文字もあります。そして、証拠のライオンのロゴマークが…。

  (5)阿片戦争(戦争の原因は茶にあり)
  世界史の中で、大きな事件として知られるものに、「アヘン戦争」があります。

  17〜19世紀にかけて、英国は中国から大量の茶葉(他に絹や陶磁器)を購入し、 その代金に銀を支払っていました。それは輸入超過で、現代で言う貿易赤字を生む事になりました。その解消法として、中国をアヘン(麻薬)付けにして、茶の代金をアヘンで支払うようにしました。

  もともと漢方(薬)好きの中国人にとって、それは簡単に広がってゆきました。 貿易港の広東省「広州」はアヘン中毒者で溢れ、英国の意図は成功しました。

  国民の行く末を案じた清政庁から派遣された「林則徐」は、1839年英国からの多量 なアヘンを池に捨て、それを機にアヘン戦争となります。 破れた清国は、「南京条約」により香港を奪われ、その後、日清戦争、中国革命へと 発展してゆくことになります。

  (6)工夫茶
  中国革命以後の共産政権下で、千年以上栄えた茶文化「喫茶」は贅沢な習慣としてみられ、僅か数年で抹殺されてしまいます。その時期には、一般大衆である人民にとっては、茶は単なる飲料あるいは漢方薬として存続しました。毛沢東とその側近達だけが、武夷岩茶の「大紅袍」などの献上茶を嗜んでいたそうです。

  毛沢東没後、文化大革命の4人組が失脚して、登小平の改革開放路線になって漸く 30年の空白を生じた茶文化が復活を始めました。それは、歴史ある潮州ガラスを板に赤ペンキで書き込んだ文革のスローガンで隠し守った、広州の茶館や文化人がいます.

  中国革命で破れた国民党軍や中国の富裕層が逃れた台湾でも、中国茶文化を継承し続けていたのです。

  また英国式文化を取込だ香港でも、大陸から逃れた中国人民と共に、中国茶と英国式の茶流と混ざり合い、茶の文化は継承されました。特に、当時日本に支配されていた、台湾は日本の茶道と接して、独自の茶文化を構築してゆきました。

  1980年以降の豊かになった台湾で、この台湾式茶道は完成され、中国茶道の『工夫茶』(丁寧に作る茶葉も同意語)と言われるようになりました。

  工夫茶は中国茶の大道の中に、 かつて、英国や日本に伝えた『茶経』を超えて、英国の茶の優雅と悦楽、日本茶道 の格式と美を取り入れ、究極の美味?香?心を求めるものです。

  (7)中国茶道の仕掛け人
  中国より伝来の茶を文化にまで発展させた日本の茶道。

  それに対して、中華圏では医食同源であり、日常茶飯事の当たり前の飲食材としての茶は、一部の地域や寺社の儀式を除いては、およそ茶道とは無縁でした。

  しかし、近年では台湾の茶芸塾は日本の茶道を凌ぐほどの勢いがあります。この勢いは、香港や中国大陸へと波及しつつあります。

  それは、今始まったばかりですが、大中華圏でも「新茶道」が復興しつつあります。 この新中国茶道には、影の仕掛け人がいます。その人は台湾の李登輝前総統です。

  今の中国茶道には、彼の執られてきた政策と思想が大きく関係しています。

  彼は、日本統治化の台湾で幼少時より日本教育を受け、京大で農業経済学を学び、日本人よりも日本人的と言われるほどの親日家であり、農業と芸術を結付けた、「日本茶道」をよく理解していました。

  日本文化の継承者でもある彼にしか出来なかった「技」が、日中合体的な発想と彼の驚異的な行動力です。

  まず、貧困に喘ぐ茶農家の救済と復興の為の政策が執られ、茶園の公園化(日本のみかん狩りのような農園と市民の融合化)が進められ、茶の品種改良を政府主導で進めました。そして、完成された良茶(凍頂烏龍茶など)を飲む為のソフト面 も配慮されることになり、台湾のすぐ横にある大陸の福建省と広東省北部の潮州にある、伝統的な喫茶法(工夫茶)を基本にして、中国茶芸を新茶道として復興させました。

  それは、香港にも普及し、大陸にも広まりつつあります。江沢民主席も「茶芸塾」から、中国茶文化と歴史の再確認が始まっている事に好感を持っているはずです。

  今までの華人世界に於いて、『陸羽の茶経』の継承版は中華圏には存在せず、伝承国には、「日本茶道」があります。

  また、茶の品質と種類に於いても、緑茶は日本と互角、紅茶ではアヘン戦争になり、英国が作ったインドやスリランカに質で互角、生産量 や知名度では失速。特に、その陸羽の思想を究極の世界観で表現し、高度で知的な芸術にまで、茶と取り組み完成させた「日本茶道」を憧れる羨ましい。 茶を人類の最高の妙薬として、見出した「陸羽」と、それを芸術にまで発展させた「千利休」。この日中合作は、台湾や香港の外部中国人にとっては、「宝を奪われたようなもの」。中華圏にいる華人学識者はこのように考えていたはずです。李登輝氏の思惑は見事に実現されました。

  (8)新中国茶道(茶芸塾)
  台湾でも、香港でも「茶芸塾」の家元化が始まっています。

  今後の中国茶道には、流派ごとに御点前が生まれそうです。

  工夫茶「中国茶芸」は、やっと台湾では復旧してきましたが、台湾で20年。大陸(中国本土)で10年になりますが、大陸では、未だに一般 大衆に普及していません。

  殆どの人々は相変わらず、グラスやカップです。そして、100種は愚か50銘茶すら、飲茶していない人々がほとんどの中国茶芸家達です。

  日本人には理解に苦しむかもしれませんが、中国人にとってのお茶は「日常茶飯事」、当たり前の物です。

  暗黙の内に決められた、その家庭のお茶があります。

  例えば、風邪を引いたら緑茶、腹痛には苦丁茶、便秘にはプーアール茶、ストレスにはジャスミン茶と言うように、どこの家庭でもその組み合わせはそれぞれですが、合えて武夷岩茶を10種類も飲む必要も無く、それは面 倒だし金銭的にも合理的ではありません。

  勿論、福建省や広東省の一部では、数百年前から小さな茶壷(急須)で茶を入れる工夫茶はありましたが、極一部の世界でのことです。中華圏全体ではありません。

  あなたもまだ遅くはありません。家元や流派を作られては如何でしょうか?

  それも、陸羽の茶の復興に繋がる、本筋(本道)とも言えます。